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2012年 05月 21日
一生に一度見れるかどうかというめずらしい現象に日本中が興奮。 その日食に1ミリも興味が出なかった私の方がめずらしい。 すべての現象は同じ様であって同じではない、それらすべてが一生に一度の現象。 そう考えてしまう私は捻くれている。 2012年 04月 02日
作品の題材にするか迷っている雑記。 ここに置いて再考します。 ◎バーチャルが現実を凌駕する 現実世界の起こりうる現象・事象の模倣として創りあげられたバーチャルとしての 表現に、人は事象・現象の支点(基準)を見出してしまうというパラドクス。 ◎映画などで、おおよそ起こりうる現象を創り上げて人に見せることによって、実際の現実世界で現象として現れた時に、人は先に体験(?)したバーチャルとしての現象経験によって、今目の前で起こった事象が何であるかいう認識作業に必要な情報を補填している。つまり、現実世界とバーチャルの逆転である。時として、映画の映像が過剰現前となり、人間の知覚に過剰な補填を行使し、時間や空間の読解能力における区別や差異化を拒否せしめている。これは既存の表象世界全体の脅威ともいえる。 ◎仮想現実がより現実世界感に近づくためには、体験者が現実世界内における意識を切り(あるいは切られ)、そして切断され保留状態にされた現実世界が嘘くさいものになればなるほど仮想現実内が生き生きとしたものになる。というのも、仮想現実の限界は、人が事象を認識するにあたって、多角的で情報量の多い方に現実感を認めるにも拘らず、実際には仮想世界は現実世界の圧倒的な情報量を超える事ができないからである。そういう意味で、両世界を経験する実体側の認知力を抑えることによって仮想世界が現実を凌駕する場合があるといえる。 例えば、3D映像などによる仮想視覚を体験する場合、自身の身の回りの現実空間の信憑性を奪い(3D映像以外の視界を暗くしたり遮る等々)、保留状態に持ち込む事によって3D映像がよりリアルに視える。そのことによって同時に、当初体験者が期待していた現実世界感とは全く異質な方法によってのみ成立する『現実感』という矛盾がうまれる。 ◎仮想現実を創るということは、どこかにそのモデルとなる現実が在るということ。しかし、その現実を知り理解するよりも早く仮想を経験してしまった場合、現実こそが仮想によって支えられるという現象がおきる。つまり逆説的には、現代人は仮想こそが実体験の経験則となりうり、同時に自身をその仮想世界に埋め込まれる事で、自らを実体とすることができるのだ。昔の人は写真や映像などに自身を撮られると実体(もしくは魂)を奪われると感じた(鏡に映る自身は、自分の動きとともに同体であり、自分らしい仕草をする事によって実体自身との繋がりを得られる。しかし、写真などに撮られた自分は、その瞬間を輪切りにされ、自身とは切り離された存在であり、しかし同時に自分である存在だという事を認めざる得ないことによって起こる怖れである)。しかしながら現代人はそれとは逆に、自身の空虚で不安な存在をカメラなどに撮られる(仮想世界に吹き込まれる)ことによって実体への実感を補填しているようでもある。 偶然テレビに映った自分をみることが出来た。昔から日常的にあって、必要な時にその時々の映像を流していたテレビ。そのテレビによって見たり聞いたりして学んだ事が多いのにも拘らず、それらが自分との繋がり(あるいは同世界)にあるものか実感できずにいた。しかし、テレビに自分が映ることによって、そしてそれを自分で見ることによって、それら過去にテレビで見たり聞いたりした物事と同一線上に自分がいるのだと実感できた。 ◎人は電話というメディア端末によって他者とつながっている時、相手に向けて旅立つような事はしない。人の意識は時間と空間を剥ぎ取られた世界の中で常に受身に成らざる得ず、また受身になるからこそ意識の中へと『ひきこもる』ともいえる。だからこそ、電話での会話を終えた瞬間に感じる感覚というのは、意識の切り替えなのではなく、実体と意識の接続作業なのかもしれない。 #人間がよりVR技術に没入する為には、人間そのものが現実世界においてより鈍感になる必要がある。というのも、仮想現実の限界は、現実世界の圧倒的な情報量を超える事ができないからである。つまり、両世界を経験する実体側の認知力を抑えることによって仮想世界が現実を凌駕する場合があるといえる。 2011年 12月 14日
今年も残り半月ほどとなりましたね。 そろそろ年末恒例の大掃除大会を画策しています。 大掃除大会・・・「〇〇はどこいったんじゃ~」とムキになって探してたものが見つかる日でもあります。 今年一年はいろいろと大変な年でした。 来年は良い年になりますよう・・。 2011年 10月 03日
私は読書が好きで、ジャンルを問わず小説から専門書まで雑多に読みこなす。しかし困ったもので、読み終えた本を捨てられない私の部屋は本で山積みになっている。そこで最近気になるのがiPadだ。最近は流通も安定してきていて、よく街中で使っている人を見かける。このタブレット型コンピュータひとつあれば本などをデータ化して、物理的な問題を解消しそうだ。 ただ、単なる読書好きならば、気軽にどこでも読みたい本のデータをダウンロードするだけで読めるこういったメディアプレーヤーは魅力的だろう。しかし、私にとっての読書というものは紙という質感と一体になっていて、ページを読み終える度に紙を一枚めくる。この時の紙の質感が堪らなく好きなのだ。もしかすると紙フェチ的なところがあるのかもしれない。 もし、物事の本質的な部分だけを楽しむというのであれば、『読書』という行為自体はiPadだけで十分楽しめるだろう。しかし物事を経験する時、人はさまざまな付加要素も嗜んでいる。例えるならば、食事行為など人間が栄養を摂るという行為の本質を達成するには、栄養剤を摂取するだけで事足りる。しかし人は栄養を摂る時に、味覚を楽しみ、臭覚や視覚でも楽しむ。それら付加的要素は人の生活的要素なのだと思う。もし、栄養剤によってのみ食事するのであれば、それは生存行為でしかない。読書においても、人は本を作り始めてから、物理的な付加的要素とパッケージで読書を嗜んできた。そういう意味でいえば、人が脈々と続けてきた従来の本を読むという行為は電子書籍による読書とは全く別のものと言える。 しかし、こういった物的な付加的要素の排除は今までもそうであったように、科学の進歩とともに加速していくのだろう。そして、人が究極的にまで物的な『モノ』に対する要素を排除して、その先にあるのは意識のみで生きていく事。つまり人の未来は、従来より続けて来た生活的要素を排除し、生存的要素のみで生きていける無鑑賞な人の世界になるのだろうか。 2011年 07月 14日
左ひざの回復があまり良くないようで、先日MRI検査したところ、あまり治癒している様子がみられない。 もしかしたら、もう剥離した骨は治らないかもしれないと言われ焦ります。 別につかなくても痛みがなければ問題ないとの事ですが、痛みがある場合は手術になるようです。 手術も苦手なんですけど、またあの寝たきりのような生活に戻るのが辛すぎます。 自分の治癒力・・本気だせ! 2011年 05月 22日
足を骨折してからというもの隠居生活のような暮らしをしていました。 でも、先日担当の医師が激しい運動以外なら動かしても大丈夫だよというので、一気に活動的に。 と言いたいところですが、いまだに骨が剥離している状態なので、リハビリも兼ねてゆっくりやっていこうと思います。 昨日は作品の事でミーティングに行ってきました。 次回の製作は昔からの友人I氏とコラボ製作をすることになったのですけど、なにせ今まで作品に関しては自分の中だけで考えて答えを出してきたので、人と意見を交換しながらコンセプトを詰めて行くって作業が新鮮で、面白いものが生まれそうです。 まぁ、概ね軸となるコンセプトは決まっているので、あとは表象的な面白さとそれぞれの行為の連携をどう濃密に詰めて行くかといったところでしょうか。 でも、そこは旧知の仲だけあって、どうもふざけた案が色々飛び出して・・まー話しがなかなか進みません。 映像案が出た際にも「お互い交合に撮って、嫌な事をやらせよう」とか・・そんななごみもいいですけど。 まじめにやろう。 2011年 03月 18日
今日、ギブスを着けた足のかゆみ止めを買いにドラッグストアに行こうと家を出ると、家の前の細い路地が車で埋め尽くされていた。どうやら少し離れたところにあるガソリンスタンドに給油する為の行列のようでした。しかし、近隣住民が車を出せないので、並んでる車のドライバー達とケンカみたいになっていた。どうやら警察を呼んだようだ。冷静に・・。 痛い足を引きずりながら辿り着いたドラッグストア。停電からの営業再開前とあって行列が出来ていた。その行列に並んでいると、開店と同時に後ろのおばさんに突き飛ばされそうになった。しかし、そんな事はお構い無しに、おばさんは食料売り場の方に突進していく。 売り場ではちょっとおぞましい光景が見えたような気がする。政府がお願いしている『買占めはしないように』という言葉は一切届いてないように思えた。 『買うな』といわれれば買いたくなる。『無くなる』と感じれば占めたくなる。日常時において『期間限定商品』に反応してしまうのと同じで、リアクタンス理論を過剰に反応した状態なのかな。 買占めをしなければ、そのぶん物資を被災地にまわせる。 被災地への募金や援助は余裕がある人がやれば良いと思うが、そうでない人もせめて援助の足を引っ張ることはしてはいけない。 2011年 03月 16日
被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。 重ねて、犠牲になられた方々とご遺族の皆様に、深くお悔やみを申し上げます。 まだまだ余震がつづいていますが、より早く元気を取り戻し力強い復興ができると信じています。 私自身も足の骨折などで満身創痍ですが、できるだけの事をしようと思います。 2011年 01月 24日
昨日の夜から蕁麻疹と戦っています。 足元から発症して、現在は顔にまできました。 まー地獄です~。 元々はそんなアレルギー体質じゃあなかったんですけど、去年の年末に同じように蕁麻疹がでて治るのに5日ほどかかりました。 なので、今回は抗ヒスタミン剤を買ってきて早めの対処をしてます。 その蕁麻疹ですが、写真を撮ったので載せようかと思ったんですけど、写真で見ると凄く気持ち悪くて・・自分でドン引き。載せるの自重です。 しかしそれにしても、紫外線過敏症・乾燥肌・偏頭痛とどれも自慢出来るほど重度な肩書きを持ってる私に蕁麻疹も加わるのかなぁ・・。 2010年 11月 22日
脅かすものがどこにもいないということが、不安の相手・対象を性格づける。不安は、自分が不安がるその相手が何なのか知らない。しかし「どこにもいない」は、何もないの意味ではなくて、そのうちには、本質的に空間的な内・存在にとって方位一般、世界の開示性一般が存している。それゆえ脅かすものはまた、一定の方向から、近さの内で近づいてくることはできず、それはすでに〈現に〉有り――しかもどこにもなく、グッと〈鼻先に〉迫って息も吐けないほど近くて――しかもどこにもない。 Heidegger,Martin 『存在と時間』 岩波文庫 以前の個展にも使わせてもらったんですけど、すごく気になる言葉。 不安の対象は世界そのものであり、同時にその世界から脱落することによって自分自身が不安の対象となる。 |
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